続・はじめて学ぶフェミニズム(←内輪ジョーク)

 Masao さんの記事「『フェミニズムはみんなのもの』だって、騙された俺がバカだったよ」へのお返事。
 まず「フェミニズムはみんなのもの」という言葉について。これはベル・フックスの書名から取られた言葉だと思うけれども、それが意味するところは「フェミニズムは一部の学者や運動家が占有して良いものではなくて、みんなに関係がある話なんですよ」という意味だと思う。
 でもそのことは、フェミニズムとの関係が「みんな」まったく均一だということにはならない。そもそもフェミニズムは社会変革を求める運動であり思想なのだから、これまで社会の中で抑圧を受けていた側の人には解放のための運動となるし、これまで特権を享受していた側の人にとっては既得権益を失うかわりに人間性を快復するきっかけとなる。
 ここでは単純化して「抑圧を受けていた側」「特権を享受していた側」と書いたけれども、実際には全ての人において抑圧を受けていた側面と特権を享受していた側面を併せ持っているので、例えばある人は「女性」という面でより自由を獲得すると同時に「日本在住の日本人」という面で既得権益を手放さなければいけないという体験をすることになる。
 そうしたことを前提として、以下は読んでいただきたい。

なんのことはない。早い話、「男」は大前提としてフェミニズムにとっては批判対象であり「敵」だから、他の「弱者」とは扱いが違いますよ、ということじゃないですか。

 これは違う。フェミニズムは「男性」という集団を抑圧を受ける側だと考えていない(大前提)のであって、「弱者だけれど、他の弱者とは別の扱いをしている」わけではない。
 また、「男性」はフェミニズムの批判対象でも敵でもない。というか、この点は他のフェミニストからは異論があるかもしれないけれど、少なくともわたしが考える限りでは。批判対象はあくまで男性を中心化する権力構造であって、男性そのものではない。
 「男性が特権を持っている」(men have the privilege) という言葉にかえて最近わたしは「特権が男性を持っている」(the privilege has men) という言い方をよく使うのだけれど(映画マトリックスの「The Matrix has you.」にインスパイアされてたり)、それは男性が権力を握っていると言うよりは、権力構造の特定の位置に男性が絡み取られているだけだとわたしが考えているから。主体は権力構造であって男性ではなく、だから男性には自分の意志で特権を手放すことなんてできない。自分の意志に基づかないことについて責任を問うわけにはいかないので、「男性」は批判対象でも敵でもありえないわけ。
 でも、自分の意志に基づくことならば責任を問うことはできる。それはつまり、特権を享受していること自体は非難できないけれど、特権を自らの利益だけに使うのか、それともより公正な関係を求めて抑圧に抵抗するために使うのかという選択は人々にはある。だから、Masao さんや他の人が書いたことがフェミニストによって批判されることはあるだろうけれど、「男性」だから批判対象とされたのだというのは間違い。責任逃れに過ぎない。

僕が↑の記事で主張したことっていうのは、まさに「社会における「男性のセントラリティ(中心性)」」という図式自体を疑い、「規範適応者VS非(不)規範適応者」のほうが現実に即しているだろうということだったんだけど、なるほど。僕の主張はフェミニズムの大前提を覆すものであり、フェミニズム的には絶対に認められないものだったというわけですか。

 わたしは一貫して、フェミニズム的には、「規範適応者/非(不)規範適応者」の図式も「男性/女性」の図式も両方重要だと言っているのね。もし Masao さんが「男性/女性」の図式が存在することも認めたうえで、自分にとっては「規範適応者/非(不)規範適応者」の図式が切実なんだ、と言っているのであれば、それはフェミニズムを何ら逸脱するものではないし、わたしも批判していなかった。
 ところが Masao さんは「どちらが正しいか」という不毛な二者択一を作り出し、「どちらも正しい」という可能性を排除しているので、それはフェミニストとして絶対に認められない。これは別に「規範適応者/非(不)規範適応者」についてわたしが否定的だから言っているわけではなくて、「規範適応者/非(不)規範適応者」という図式を認めつつ、それでは説明しきれない抑圧が他にも存在することを指摘しているわけ。

そうなってくると、そもそも「「男性のセントラリティ」や、「『男性=強者、女性=弱者』という図式自体がおかしくね?」と考える僕は、フェミニズム的には本当に「ありえない」存在なんだろうな。

 そのように考えるのであれば、フェミニズムとは意見が異なりますね。だからといって別に「ありえない存在」ってことはないんじゃないかと。
 それでも、もし Masao さんが「規範適応者/非(不)規範適応者」という図式に基づいて抵抗する運動なり活動をやっているのであれば、フェミニズムの立場から特に批判する必要はなさそう。だって、「規範適応者/非(不)規範適応者」という図式だけでは不十分だとはいえ、それは確実に社会のある一面の不公正を是正するための運動だから、フェミニズム的には歓迎するはず。問題になるのは、Masao さんが「規範適応者/非(不)規範適応者」という図式をフェミニストにも押し付けようとした時(正確には、そういう図式が唯一絶対であるという主張を押し付けようとした時)で、そのときは批判対象になる。
 で、思うんだけれど、Masao さんにとって「規範適応者/非(不)規範適応者」の図式はフェミニズムを否定しなくちゃ主張できないようなことなんだろうか。フェミニズムも自分とは別の部分で社会の不公正を是正しようとしている運動で、自分はコミットしないけれどそういうのもあっていい、くらいには寛容になれないのかな。それができるなら、フェミニズムの側は共存可能だと思うんだけどな。


 と、ここで結ぼうかと思ったけど、追記で質問があるようだからお応え。

今回の記事では、macskaさんのいう「男性のセントラリティ」を上野千鶴子氏がいう「男性=強者」と同じ意味だと読み取ったけど、macskaさん的にはこのふたつは違うものなんだろうか?ちょっと気になった。もし違うなら、どこが違うんだろうか?

 多分それは同じことを言っているのだろうけれど、「男性=強者」という言い方は一般社会に分かりやすい言い方であってあまり厳密ではないと思う。というのも、強者というのは男性自身の特性ではなくて、単に男性が置かれた社会関係上のポジションに過ぎないわけ。
 文中で書いたように、わたしは「男性が権力を持つ」のではなく「権力が男性を持つ」のだと考えているから、男性自体が主体として強い力を持つような言い方はできるだけしたくない。けれども「権力が男性を持つ」と言っても日本語としてヘンだし、それを説明する余裕が常にあるとは限らないので、一般社会に伝わりやすいように「強者」と言ってしまうこともある。あるとすれば、その程度の違いじゃないかと。