「ジェンダーレス」という言葉の2つの意味

 Bruckner05 さんがわたしの論文を批判してまた何か言ってました

フェミ読者は、以下の文章を読んでなるほどその通りと思うのだろうか。思う人は相当にイカれている。

いろいろと曲解されているが、地方自治体においてジェンダーフリー男女共同参画を推進している人たちのたいはんは、「男女の区別をなくせ」ではなく、「性別に関わらず個人として扱え」という部分に重点を置いている。「男子も女子も同じ色のランドセルを使いましょう」というのではなく、「それぞれが自分の好きな色のランドセルを使っていいじゃないか」という考え方だ。(p.306)

なるほど「男女の区別をなくせ」と「性別に関わらず個人として扱え」は表現としては違っている。前者と後者は100%異なる文章だ。しかし意味は同じである。「バカ」と「頭が悪い」が同じ意味なのと同じである。


「男子も女子も同じ色のランドセルを使いましょう」(A)
「それぞれが自分の好きな色のランドセルを使っていいじゃないか」(B)


(A)と(B)、どちらも男女の区別を無視している。(A)は全員に同じ色を使わせる点で男女を区別しない。(B)も色に関して「何を選んでもいい」という点で男女を区別しない。どちらにおいても男女の区別はない。

 たしかに、(A)と(B)にはある一面において共通点がある。しかし現実に両者の方針は、まったく異なる内容だ。前者は全員が同じ色のランドセルを使うことになるのに対し、後者はそれぞれ自由に選ぶ結果黒と赤だけでなくさまざまな色のランドセルが混じり合うことになる。
 これまでジェンダーフリーを批判する保守論者は、ジェンダーフリーが男女の区別を撤廃して「みんな同じ」にすることを画一的であり全体主義的だと批判してきた。しかしジェンダーフリーが推進するのは(A)の画一化ではなく(B)の自由化・多様化だ。これは明らかに違った主張であるのに、ただ一つの面だけに注目して「同じことを違ったことのように言う詭弁」と呼ぶのは、それこそ詭弁だ。
 ジェンダーフリーを批判する人たちは、これまで「ジェンダーフリーは男女の区別を無くすものだ」として批判してきた。そのとき、かれらは「男女の区別を無くす」という言葉を(A)=画一化・全体主義化という意味で使ったからこそ、わたしや他の論者は「ジェンダーフリーは(そのような意味での)ジェンダーレスではない」と反論してきた。しかしもし「男女の区別を無くす」が(B)の自由化・多様化の意味であるなら、それはジェンダーフリーの理念に沿ったものであり、それをジェンダーレスと呼ぶのであれば「ジェンダーレスで何が悪い」と言いたい。
 そのことは、6月10日に『バックラッシュ!』キャンペーンブログに掲載した座談会でも話している。

macska:
 ジェンダーフリーが「ジェンダーレスではなくジェンダーの自由」だとする意見に対し、あるバックラッシュ論者が「自由になったものはもはやジェンダーではない、すなわちジェンダーの自由はジェンダーレスと同義だ」と言っているんですが、それは実は正しいんではないかと思ったりします。そういう意味でジェンダーレスと言うなら、ジェンダーレスで何が悪いとわたしも言いたい。
 つまり、特定のジェンダー的振る舞いを禁止するとか奨励するというのではなく、ジェンダージェンダーたらしめている規範性を撤廃するのであれば、今の社会でジェンダーと呼ばれる振る舞いは残ってもそれはジェンダーと認識されなくなる、ということですね。そういう意味のジェンダーレスなら、堂々と主張すべきだと。

 つまり、ジェンダーの自由化という意味ではジェンダーフリージェンダーレスだけれど、ジェンダーの画一化・全体主義化という意味ではジェンダーレスではない。保守派がジェンダーフリーは後者の意味でジェンダーレスだと批判するのに対してわたしは反論しているのに、「前者の意味ではジェンダーレスではないか」と言われてもそれはわたしではなく批判側の詭弁だろう。
 「ジェンダーフリー」以上に意味があいまいで両義的な「ジェンダーレス」とか「男女の区別をなくす」という言葉は、いい加減使うのをやめてはどうかと思う。そして、今後は(B)の意味のジェンダーレス=ジェンダーフリーへの批判として、「ジェンダーフリーは(A)の意味でジェンダーレスだから」という詭弁を弄するのは止めていただきたい。